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携帯型ゲーム発展の歴史

1976年にアメリカにおいてマテルが『Mattel Auto Race』を発売。これが世界初の携帯型電子ゲーム機とされる。同社が翌1977年に発売した『Mattel Football』はヒット商品となり、各社から様々な製品が登場した。その一部は日本にも輸入された他、日本国産のものも各種登場した。そして、1980年に発売された任天堂の「ゲーム&ウオッチ」シリーズは大ヒット商品となった。

当時の携帯型ゲームはゲームソフト自体が本体の内蔵部品に書き込まれているため、別のゲームソフトが必要になったときには、本体も含めて新しいものを購入しなければならなかった。また表示装置も登場人物などの形状の点滅箇所があらかじめ決められている程度の、今から見ればごく簡易的なものだった。 その後10年ほどは電子ゲームと呼ばれる、このようなタイプの携帯型ゲームが主流だった。

その流れは、1989年に任天堂が発売した「ゲームボーイ」によって大きく変わる。 当時普及していたテレビゲーム機ファミリーコンピュータと同様に、ゲームソフトを記憶したカートリッジを交換して使用でき、液晶も縦横に点を配列した方式のものを採用したことによりさまざまなゲームを遊ぶことを可能にした。現在の携帯型ゲームの原点である。 この機種は、安価な本体価格の設定と、熱中度の高いゲームソフト『テトリス』の効果で爆発的にヒットした。

同年には米Atariから「Atari Lynx」が、翌1990年にはセガから「ゲームギア」、NECホームエレクトロニクスから「PCエンジンGT」と携帯型ゲーム機が続々と発売された。いずれもカラー液晶画面を搭載し、性能でもゲームボーイに勝っていたが、本体価格の高さ、電池の持ちの悪さ、対応ソフトの不足や偏り等の要因により牙城を崩すに至らず姿を消していった。

ゲームボーイの普及は、そこそこの性能で安価・軽量であり、また乱暴に扱われがちな携帯機器(児童向け玩具)にあって、足元に落下させた程度では簡単には破損しない丈夫さが愛好者を増やした要因ともいえよう。特に対応ソフトウェアの幅広さに加え、電池切れを余り気にせず何処でもすぐに利用できた点でも、同機種は長く愛好された。当初は単純なルールの物が当初好まれたが、その一方でじっくり腰を据えて遊ぶ物も用意されていた点も、幅広い支持を得るのに役立ったと推測される。

その後、携帯型ゲームの所持者からはカラー液晶ディスプレーを搭載し、なおかつ電池の持続時間の長い次世代の携帯型ゲーム機を望む声も徐々に増えてくるが、これらの要求を満足する携帯型ゲーム機は、この年代には発売されなかった。液晶ディスプレイの技術が発展途上にあり、技術革新が困難だったためである。

また、単価の安い携帯ゲーム機ソフトはメーカーにとって利幅も小さく、開発コストや期間を抑える事が要求された。そのため、ヒット作の後追いの安直な企画(特に『テトリス』のヒット直後はパズルや落ちゲーばかりだった)や明らかに練られていない作りのソフトの粗製濫造状態を経て次第にユーザーに飽きられていく。折りしも当時は据置型ゲーム機の世代交代期であり、ROMカートリッジに比べて割安であるCD-ROMを採用したソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の「プレイステーション」やセガの「セガサターン」といった次世代機に世間の耳目は傾いてしまい、一時はゲームボーイも市場から姿を消す寸前までになる。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

「ゲームボーイ」は発売当時、本当に欲しかったものの1つでした。

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2009年12月16日 23:18に投稿されたエントリーのページです。

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